Parce que c'est comme ça

欧州大学院生。最終目標はバカンスのある人生。パスクセコムサ。

失言の構造

ある議員の講演会のあと、こんなことを言った人がいた。

政治家ってよく失言するけど、その構造がよく分かったよね。笑いを取ろうとすると、ちょっと際どいことを言わないといけないんだ

 

正直に言おう。私は思った。

馬鹿と言われたいか、阿保と言われたいか、それくらいの選択の余地はあげてもよい、と。

 

確かに、笑いを取ろうとしていることはよく分かった。そして、笑いを取るためには多少ぶっちゃける必要はある。それは分かる。でも、ぶっちゃける方法はいろいろある。

 

その講演会の話者は女性だった。「ぶっちゃける」ネタはほとんど自分のことだった。過去の経歴や自分の立場を中心に笑いをはさんでいて、それは素直に笑えることだったが、ひとつだけ「おばちゃん」と自虐していたのは悲しかった。そんなことをしなくてもその人の話は十分におもしろかった。

 

対して、問題になりニュースになる「失言」は、被災地が東北でよかっただのなんであんな黒いのが好きなのだの、他人を踏みにじるものである。次元が違いすぎる。加えて、女性記者は男につかなければいいとか子どもを三人は産めとか、女性蔑視も目立つ。とにかく他人を馬鹿にすれば笑いを取れると思っているのである。

 

あくまで自分を落とす人の話を聞いて、他人を落とす失言の「構造が分かった」と言ってしまう愚かしさは筆舌に尽くしがたい。構造が失言させているのではなく、元々の人権感覚の低さや人間性のなさが「笑い」という場面で表出しているだけなのである。まあ、笑いに限らずいつでも溢れだしているが…。

 

この国の人たちが人権感覚に著しく欠けていることは前から知っているし別に驚きはしないが、日々失望ゲージはたまっていくばかりである。しんどみ。