Parce que c'est comme ça

欧州大学院生。最終目標はバカンスのある人生。パスクセコムサ。

ゲッベルスと私と私

ゲッベルスと私 という映画を観た。

思ったことを書き留めておくべき映画だったので、ブログに残しておく。

 

鮮明な語りと立ち上る戦前戦中のドイツ

本映画の語り手はブルンヒルデ・ポムゼル御年103歳。合間合間に差し挟まれる当時の映像と、彼女の語りだけで映画は進行していく。この語りがすごい。当時付き合っていた恋人に誘われてナチの大会に行く様子、第一次大戦パイロットの伝記作成を手伝うようになった経緯、当時の彼女に起こったこととそこで感じたことが、きわめて具体的に描かれていく。ナチ党への入党手続きが終わるのを待つエヴァの姿が、目の前に浮かんでくるようだった。あの時代に体制側ど真ん中で生きた一般人の肉声を、これだけじっくり聞ける機会はなかなかない。

 

退屈な前半とショッキングな後半

映画は淡々と、彼女がまだナチとなんの関わりもなかった頃から敗戦までを一定のペースで進んでいく。だから、前半はわりとのんびりした話が多い。時折ピリッとしたものが混じるのは我々がその後の歴史を知っているからで、じわじわとユダヤ人の雇い主や友人の可動域が少しずつ狭まっているのが分かる。民衆がナチに取り込まれていくのも、イデオロギーありきではなく生活にひょっこり顔を出すようなものであったことが描かれる。

後半は皆さまご存じの通り、という以上の、ショッキングの極みのような映像が続けて出てくる。やせ細った大量の遺体がモノとして扱われるサマは、そしてそれがユダヤ人によって(ダビデの星の腕章で分かる)「処理」されていくサマは、人間社会の敗北である。この事態を前にして科学だの文化だのになんの意味があるというのだろうか。人間っていったいなんなのだろう。あるがままにあればそれでいいのだろうか…。私個人としてはそんなあり方は断固として拒否するが、とはいえシリアの惨状をしり目にのほほんと生きていたわけではあって、本質的には実はあまり変わらないのだろうか。

 

○「知らなかった」の欺瞞―真に学ぶべきは退屈な前半

彼女は言う。「私は知らなかった」「抵抗することなんてできなかった」「私に罪はない」。でも、本当になにも「知らなかった」のなら、抵抗することが「できなかった」という言い方にはならないだろう。本当に一切なにも知らなかったのなら、抵抗なんて「思いつきもしなかった」というニュアンスになるだろう。そう、正確には、「人を焼いているなんて」知らなかったと言うのだ。たしかに、人を焼くとまでは思いつかないだろう。それは分かる。でも、ユダヤ人が劣等人種として迫害を受け排斥されていったことは、当時のドイツにいた人なら誰でも知っていたはずなのだ。現代日本において在日朝鮮人への差別がないという人は、単に見たものが頭の中で咀嚼されていないに過ぎない。ましてやナチは政府をあげて広報していたのだから、いわんやをや。

そう、私たちは、映画の中では比較的のんびりしていたと読めるような、ナチ的価値観がじわじわと侵食してくる段階で、断固としてNOを突き付けなければならないのだ。本当に人を殺し始めてからは、間違いなく自分も殺されることが火を見るよりも明らかなので、そこに至ってなお命をかけて抵抗できる人は多くないだろう。

「私にはユダヤ人の友人もいる、私は差別はしない」ではいけないのだ。まわりに在る差別を黙認するとき、それはほとんど積極的に加担することに等しい。

 

○私たちがしなければならないこと

とはいえ、私も、嫌韓で笑いを取ろうとするような人がいたとき、せめて笑わないようにすることくらいしかできなかった。でも、それではだめだという意識を強くもつこと、きちんとその場で否定することこそが決定的に重要なのだと思う。一人一人がそういう意識を持って生身の人間に向き合っていかないと、差別的な空気はじわじわ広がっていってしまう。

そして本当に危ないのが、先般の自民党杉田議員の発言である。散々言及されているので概要はぐぐっていただくとして、あのような言説をなんとなく許してしまうことこそ、この映画が警鐘を鳴らすあの世界への入口であり、ターニングポイントなのである。あれを、でも私たちに実害があるわけではないしと放っておくと、暗黒世界は案外すぐにやってくる。歴史は繰り返すのだ。実害が出る頃にはもう遅いと、過去はせっかく教えてくれているのに。

 

社会は複雑で大きくて捉えどころがない。でも、結局構成しているのは一人一人の人間であり、今まで社会が変わってきたのも、その一人一人が少しずつ声をあげてきたからなのだ。決して諦めてはいけないし、私たちが成し遂げられることはきっとあると信じていたい。