Parce que c'est comme ça

欧州大学院生。最終目標はバカンスのある人生。パスクセコムサ。

2019年のわたし

あけましておめでとうございます。

なんとか2019年を終えられてほっとしています。というのも、2019年ほど先の見えない日々はこれまでの人生の中で初めてだったからです。1年先どころか数か月先でさえ、自分が何をしているか全く想像のつかない状況でした。

一寸先が闇なのか光なのかの判別もつかぬまま過ごしてきた1年でしたが、だからこそ、自分は何者なのか、何をしたいのかについてよく考えざるをえない1年でもありました。というわけで、考えたことを少し書いておきたいと思います。自分の整理用かつ備忘録です。

 

 

〇他人は「自分の思い通りには」変わらない

よく「他人は変わらないから自分が変わるしかない」って言うじゃないですか。わたしこの言葉あんまり好きじゃないんです。なんかいいこと言っているようで他人を簡単に切り捨てているし、結局楽な道に流れているだけでは?と思うから。別に楽な道を選ぶこと自体は悪いことじゃないですけど、さもそれが一番賢いことみたいな感じで言われると??ってなります。

っていうか形容矛盾じゃない?自分という人間が変われるなら、同じ人間である誰かだって変われるでしょう。

だから、この言葉は正しくは冒頭の通り、「自分の思い通りには」他人は変わってくれない、動いてくれない、ということですよね。そんなの当たり前体操すぎます。だけど自分も他人も変われるのだから、諦めずにコミュニケーションをとっていきたいとわたしは思っています。

同様に、「あの人はもう〇歳だから、〇年あれで生きてきたからもう無理だよ」というのも好きくありません。そういう場合はたいていその言葉によって我慢させられる誰かがいるし、何歳になっても人は変われると信じているから。年齢だけで諦められるのは悲しいことだなと思います。

 

〇一人ではなにもできない

わたしには実現したい理想があり、その理想はそれなりに正しいというか、少なくない尊敬する人たちが評価してくれました。だけど、仮にそれが正解だったとしても、わたし一人だけが知っていても社会は何も変わりません。ある程度権力を持ったうえでの押しつけでも、あんまり意味がない。「なんでこんなことも分からないんだ」と苛立つのではなく、地道に対話を重ねて力を借りていくしかないのです。もちろんその過程で私自身の考えが変わっていくこともあるでしょう。というか、それがなければただの正義の押し売りになってしまいます。

一方で、全ての人に分かってもらう必要もまたないのだと思うようになりました。最初から諦めてしまいたくはないけど、たとえばナチを賛美する人と分かり合える気はしません。だけど、そういう人がいても「ナチの再来は絶対に防がねばならない」という社会的コンセンサスを構築することはできます。最近ちょっと不穏な空気が漂ってきているけれど…。

 

〇因果応報

2019年、いちばん痛感したのはこのことでした。大学院へ出願するにあたり、履歴書(CV)や大学の成績やパーソナルステイトメントを書く必要があったのですが、多少は盛ったとしてもやっぱり嘘は書けないわけです。大学で手を抜いていた授業はそれが成績となって表れるし、一生懸命やっていたこと、常に心がけていたことは自分の言葉で記述することができます。真面目に取り組んでいたこともそうでないことも、それがそのまま今の私に跳ね返ってきました。

だから、大事なのはどの組織に所属するかではなく、自分でしっかり考えを持ってその場で最善を尽くすことなのだと思うようになりました。頑張ったことは、必ずなんらかの形で将来の自分に返ってくるし、逆もまた然りです。

 

〇できるようになりたいこと

・英語(TOEFL100点の呪縛から早く逃れたい。がんばる。)

・フランス語

・韓国語

・教育系のバイトの経験を積む

・英語の論文を難なく読む

国際法、国際情勢について勉強する

 

〇したい仕事、関わっていきたいこと

将来はより弱い人の助けになるような、公務員的な仕事をしたいと思うようになりました。いったんはフェードアウトしたというか、そうじゃなくても生きていけると思っていたのですが、やっぱり仕事としてもそういうふうなことをしたいと気づきました。今はふつうの民間企業でバイトしているのですが、特に楽しい(というと語弊があるかもしれないが)と思うのは、子どもやお年寄り、障害のある方の手助けをできたときなので、やっぱり自分はそうなんだな~と。

これからどういう人生をたどることになるのか、今は全く想像できないけれども、常に指針はそこに置きながら目の前のことをがんばっていきたいと思います。

 

はい、というわけで備忘録でした。