Parce que c'est comme ça

欧州大学院生。最終目標はバカンスのある人生。パスクセコムサ。

インクレディブル・ファミリーが問いかけるもの

先日、インクレディブル・ファミリーを観た。前作ミスター・インクレディブルがずいぶん面白かった記憶があり、とにかく楽しい映画を観るという心づもりでスクリーンの前に座った。ところがどっこい、面白いことはじゅうぶんに面白かったのだが、頭を空っぽにして楽しめる系の映画ではなく、思いのほか今の自分にクリーンヒットしたのだった。

ーーー以下、ネタバレしまくりますーーー

 

○女性が活躍する物語がもたらす解放感

今回は、イラスティガール(ヘレン)が外でバリバリ仕事をこなす。超かっけえ。ミスター・インクレディブル(ボブ)は家で家事とお留守番である。

このあたりの流れが少し説教臭いなと、最初は思っていた。ヘレンは最初に外での仕事を持ちかけられたとき、自分が家のことをしないで誰がするのだと、断ろうとする。しかし、ボブは、最終的にはヘレンを後押しするのだ。絵に描いたような「女性活躍」の流れだと思った。

余談だが最初に「ミスター・インクレディブルではなくイラスティガールにこの仕事をやってもらいたい」と言われたときの彼の反応が、ものすごくリアル。目立つかっこいい仕事は妻ではなく自分がやりたい…「分かるだろ!?」←コレ。超分かるよ。(無意識的にしろ)見下している女性に自分と同じかそれ以上の能力が求められる仕事なんて(そもそもできるとも思われないけど)やってほしくない、でもさすがにそこまではっきり言うと差別的なのは分かってはいる、だから察してくれよ!って感じ。分かる分かる。超見覚えある。そういう奴いっぱいいるよな。

閑話休題

なので、最初は教科書通りみたいな展開にちょっと嘘臭さを覚える。でも、依頼者が断固として「いや、今回はイラスティガールで」と言い切り、いざイラスティガールがバリバリ活躍しだすと、これがもう爽快。まあそもそもの設定に「男は力仕事」「女は柔らかく包み込む」みたいなジェンダー感が見え隠れすることの不満がないわけではないが、それくらいは許せる程度には彼女が有能。とにかくかっこいい。

ここで、「女は男より劣っていて当然」「三歩下がって後ろに付き従うべき」という社会の価値観に少なからず抑圧されている自分に気付くのである。「解放感」としか言いようのないものが脳にじんわり広がっていく。昔、あるテストでダントツ1位の成績を取ったことがあったのだが、そのとき「男のほうが頭がいいなんて嘘だ」とはっきり思えた気持ちよさを思い出す。

一方でボブも決して悪い奴ではないのである。社会全体の男尊女卑的な規範になんとなく染まってしまっていただけで、本当は悔しくてもヘレンを応援することもできるし、家事や子育てを頑張ろうとする。特に家事の苦労をエドナに愚痴る場面で、「単3の電池がなくて苦労して買い物に行ったのに、間違えて単4電池を購入してしまい、結局家にあるのは使えない単4だけ」というのはもう分かりすぎて微笑ましくなってしまった。いやほんとあれ徒労感すごいし自分の無能さにがっかりするよね。

今までヘレンがやっていて「誰にでもできる簡単なこと」と侮っていたケアワークの難しさを知り、成長していく姿は思いのほか感動的だった。いやまあね、もちろんそもそも侮るなよ、想像力を働かせなよ、という話ではある。しかしながら、社会に染みついてしまっている価値観に抗うのは普通の人には難しい話で、自分が向き合わなければならなくなったときに、ヘレンに八つ当たりすることもなくちゃんと壁を超えていくボブのことは許してあげてもいいと思う(何様)。向き合いすらしない人、いっぱいいるからね。

(バイオレットがいい子すぎた。父親にあんな仕打ちされたらしばらく口もききたくないぜ。)

 

○「悪法も法」か「悪法は法にあらず≒守らなくてもよい」か

これも最初から登場するテーマである。そのままセリフで言っちゃうので若干説教臭いというか説明過多なのだが、さっきと同じでまあその辺許せる程度には面白いからよいとする。

ヒーロー活動は法律で禁止されている。禁止されているのは不当だ、というところまではボブとヘレンの意見は一致するのだが、そこから「でも法は法だから守らなくてはいけない、正当な手順で変えるしかない」派のヘレンと、「法とはいえ明らかに不当なのだから守る必要はない」派のボブが対立する。

映画の中では結果オーライじゃん?みたいな感じでなんとなく流されたように感じたが、自分で考えろということなのかとも思った。

私は、こと憲法が保障する人権を侵害するようなものについては、法とて守る必要はないと考える。というか憲法に抵触するような[概念としての]法は存在しえないのだから、たとえ一般的な解釈からは逸れるとしても、憲法に整合するように行動することはなんら責められるべきものではない。旧優生保護法尊属殺人罪など、ひどい法規定は[実際としては]存在しうるのである。

憲法に抵触まではしないけれど不当なものについては、王道としてはそれを破る前に世論や国会、裁判所に訴えることだろう。でも、ケースによってはそんな悠長なことを言ってられない事情があるのかもしれないなとも思う。

もちろんいずれにしろ最終的に判断するのは裁判所だし法を変えられるのは国会だけだけれども、裁判官や国会議員でなくとも誰でも議論は提起できるし、そうすべきだと思う。

では実際にインクレディブルシリーズにおける、「スーパーヒーロー活動禁止」規定は憲法に抵触するのだろうか。当然ではあるがあの世界の憲法は分からないので、日本国憲法を念頭に置いて考えてみる。

…考えてみようと思ったけれど、考慮しなければならないことが多すぎる&結構緻密な論理が必要そうで大変だったので諦める。結論だけ言うと、活動禁止そのものが直ちに憲法に抵触するとまでは言い難いが、 国民の権利に規制をかける類のものであることは間違いなく、法としての目的を達成する合理的かつ抑制的な手段であるかという点においてはかなり疑いがある。よって、権利を回復する過程で多少現行法を破るのはまあいいんじゃないか(雑)という感じである。

 

○人が皆それぞれの力を発揮すること

ちょっと話がそれてしまったが、今回この映画が最も訴えかけたかったのはここなのだろうと思う。人はみなそれぞれに力を持っており、その力をみなが生かすことが個人の幸せにも、社会の発展にもつながるということだ。

今回の悪役「スクリーン・スレイバー」はこう言う。「スーパーヒーローがいると、人々は頼り切って自分ではなにもしなくなってしまう。危機的状況でも、スーパーヒーローがなんとかしてくれると、現実と向き合おうとしない。」

これはその人物の過去の体験から来ている言葉だが、あながち間違っていないわけだ。

でも、である。一般人にはお前自身の力で向き合え!と片方の口で言いながら、一方でスーパーヒーローには一般人のためにお前の力を押し殺せ!というのは公平を欠く。スーパーヒーローとて人間だ。それに、社会全体の効用を考えてみるとやはりコスパが悪い。もう少し私たちの社会に引き寄せて考えても、超能力を持っている人はいないにしても優れている人はやはりいる。ジョブスに、一般人にはついていけないからスマホを発明しないでくださいと言うのだろうか?それはやっぱりありえないだろう。

つまり!どんな人でも、その力を目いっぱい生かせるのが一番いい。それに、スーパーヒーローだけいればいいというものでもない。車椅子が移動できる道は誰にとっても通りやすいように、なるべく多様な考え方や背景を持つ人たちの力が交わるのが理想なのだ。

 

女性だから、子どもだから、障害があるから、法律でできないことになっているから、いろんな理由でその本来の力を発揮できていない人が、我々の社会にはたくさんいる。少しずつでも、活躍の場を作っていきたいものだ。そういうことを、この映画は訴えているのではないだろうか。

障害者雇用は健常者並みに働ける障害者を探すものではない

中央官庁障害者雇用率水増し問題がニュースになっているが、あなたはどうお考えだろうか。

私は論外だと思う。しかしながら、日本社会に蔓延する「そういうもの」病にかかっている人たちはやはりこの件についても「そういうもの」「障害者雇用なんて所詮きれいごと」と仰っているらしい。

常々(特に国家)公務員というものは面倒な声の大きさだけで物事を判断する嫌いがあると思っているが、今回も大きなニュースになった面倒なことになった仕方ないから会議とかするか感がプンプンである。自分できちんとなにがどう問題なのか表現できる人がいない。果ては「どうでもいい」とまで言い出す始末。世も末である。

まあ公務員批判は今回の本筋ではないので置いておいて、私が今障害者雇用について考えていることを整理しておく。

 

○そもそも、なぜ障害者を雇用しなければならないのか

現在、国は民間企業も含め一定以上の障害者を雇用しなければならないと定めている。その率に達しない企業はお金を払わなければならない。これは私の感覚では結構強めの規制である(○○してはいけないという規制はたくさんあるが、○○しなければならないという規制は安全衛生面以外あまり想像できない)。なぜそこまでして雇用率を定めているのか。当時の厚労省の議論を追ったわけではないので、ここからは自論である。

 

1.障害者とて人である

一義的には障害者の人権保障、社会参画機会の保障であろう。働けなければ、よほど実家がお金持ちでもない限り、全生活を障害年金などの社会保障に頼らざるをえない。もちろん障害年金生活保護自体は不可欠な制度だし積極的に使用しなければならないと思うが、一生涯それに頼らざるをえないとなると肩身の狭いことこの上ないのではないだろうか。自分で稼いだお金というものの自由さに陶酔した経験を持つのは私だけではないはずだ。金額的にも余裕があるとは言い難いだろう。

また、自己実現や社会貢献の文脈において労働が果たしている役割は少なくない。

もちろん別に働きたくないよという人も中にはいるだろうが、働きたい人がいるときに、あなたは障害を持っているから働けませんというのはあまりにその人に強いる犠牲が大きいと思う。障害の社会モデルという言葉もずいぶん浸透したが、働けないのは社会が働ける環境になっていないからだ。障害のあるなしを分けるものは努力でも日頃の行いでも人間性でもない、ただの偶然なのに、障害者は働けなくてもしょうがない(働ける環境を作る努力をする気もない)というのはあまりに酷ではなかろうか。

 

2.多様な人の力を活かすことの価値

人はみなそれぞれの価値観や視点を持っているものであるが、当然似たような特性を持つ人は似たような考えを持ちがちである。でも、ものごとはなるべく多様な視点から見たほうがよいものである。左利き用のはさみはきっと左利きの人が困っている声が届かなければ作られなかっただろうし、女性がフルタイムで働きだしたことがすべての人の働き方を見直すことにつながっている。当たり前だがこの社会には成人健常男性だけが生きているわけではないのだし、より弱い人に優しい社会というのは、相対的に強者となる人にとっても生きやすい社会でもあるのだ。

 

3.人はいつなにがあるか分からない

これは実はあんまり言いたくはない(1と2で必要条件は満たしているしそれで理解できるくらいの想像力は持ち合わせていていただきたい)のだが、一番分かりやすく多くの人に響くので一応書いておく。今健常者として暮らしている人だって明日交通事故に遭うかもしれなければ脳卒中で倒れるかもしれない、そしたらもう働けなくなるって、それ困りません?そうならない社会を作っておいたほうがよくないですか?はい、以上。

 

障害者雇用のあり方ー障害者雇用は健常者並みに働ける障害者を探すものではない

と、以上は総論、理想論である。それは分かっても実際はやってもらえる仕事もあんまりないし難しいよ、ということはひっじょーによく聞く。それ自体は分からんでもないが、総論賛成各論全部反対というのは一番卑怯な態度であって、総論賛成というならばそれを成しうる各論を探さねばならない。

そもそも、健常者用に作られた仕事の枠ありきで考えているから難しいのである。まず、健常者の定員1の仕事を障害者の定員1で取って替われるという考えは捨てなければならない。1:2にすればよいというものでもない。できることが違うのだから、役割分担をするのは当たり前である。

それは分かっているよと、だからやってもらえそうな仕事があるか考えるよというのも、実際に雇用する人を想定してやっているのでなければ無意味である。障害は人によって千差万別であり、一般的な類型を念頭においてたとえば視覚障害の人にはこの仕事、などとやるのは机上の空論であり時間の無駄なのだ。

であるから、最初のうちは、上の1と2がちゃんと分かっている人をそんなに忙しくない部署に置いて、その人の下に直接対象者を配置するというのがよいと私は思う。どういう仕事をやってもらったらいいかは手探りであり、最初はすごく難しいことをお願いしたり逆にやるべきことが見つからない期間があるかもしれないけれども、その都度話し合いながら一緒にやっていきたいことを伝え、少しずつその人に合ったパターンを見つけていくのである。一度類型ができてしまえば、我々は「そういうもの」を受け入れるのは得意であるから、なんとなくまわっていくだろう。

勤務時間中ずっとパソコンをかたかた言わせている人にしてみればあいつぼーっとしてんのに余計に給料もらってるということになる事態もあるかもしれないが、そもそもできることが違うこと、障害者雇用の社会的意義に照らしてみればそんくらいは許容すべき範囲であることを分からせねばならない。

 

それにしても1と2が分かってる人の悲劇的な少なさよ。ジーザス。

仏検2級二次試験のお話

過日、某所にて仏検2級二次試験を受けてきた。

ちょっと(といっても2週間ほど)時間が経ってしまったので細部は忘れているけれども、備忘録として書く。今後受ける人の参考になれば幸い。

 

ものすごく暑い日だった。5分歩くともう休憩が必要になるような。

私の試験時間は昼下がりのかなり暑さの厳しい時間帯だったので、クーラーガンガンの会場についた瞬間は天国かと思った。結構広いきれいな待合室が用意されていて、30分ほどそこで聞かれそうなことの想定回答をスマホのメモに打ちながら待っていた。そろそろ呼ばれるというころには結構寒くなっていた。クーラー効きすぎあるある。

何人かまとめて呼ばれて簡単な説明を受けたあと、それぞれの試験室前へ移動。着いたらすぐに前の順番の人が試験室に入るという感じだった。

ドアが薄いのかなんなのか、結構前の人がしゃべっている声が聞こえてくる。わりとずっと受験生がしゃべっていて(なんと言っているかまではあまり聞こえないが)、ただ待っているほうとしては緊張した。隣の部屋は試験官が質問している時間のほうが長いくらいで笑い声なども聞こえたので、私の試験官は優しくない人かも…などと思った。

いよいよ自分の番になり、試験室へ入る。

座ってくれと言われて座り(椅子を間違えかけたが)、Bonjourとあいさつ。日本人の女性とフランス人の男性が一名ずつだった。

男性のほうから、「自己紹介してください」と言われる。私はてっきり問いかけと答えの応酬でずっといくもんだと思っていたので一瞬テンパるが、適当に名前と年齢と職業、あと直近でちょっと特殊なことがあったのでそれを言った。趣味とかは言っていない気がする。

その特殊な事情に女性が食いついてくれて、それで2,3質問と答え。最後の質問はフランス語で答えるのは無理だったので、C'est un peu compliqué...と言ったらそれ以上は突っ込まないでいてくれた。本当はC'est un peu compliqué d'expliquer en Françaisと言いたかったのだがやはり緊張していたようだ。

その後、フランスに行ったことはありますかと問われ、パリに毎年行っていると答えた。パリのなにが一番好きか(たぶん、Que aimez-vous le plus ? だったと思う。)と聞かれたので、Il y a beaucoup de musée, notamment, j'aime le Pompidou.みたいなことを言った気がする。そしたら男性のほうから、近代絵画があるとこだよね?と言われ、これはOui, c'est çaで流す。笑 女性から絵(des peintures)が好きなの?と言われたので、J'aime ca, mais je ne connais pas beaucoup.と返す。J'en aimeと言えたらかっこよかったかもしれない。

それから、田舎と都会どっちに住むのが好きか(preferer)と聞かれた。J'aimerais habiter à la compagne, parce que il y a beaucoup beaucoup de gens en ville. Mais (都会は空港にすぐ行けるのはいいと思うみたいなことを詰まりながら)みたいな感じで答えた気がする。

この辺でお時間ですとなり、おお結構あっという間だったなと思った。Merci, bonne journée!でお別れ。

 

どちらかというと女性から質問されることが多くて、男性は時折(気になったとこだけ笑)口を挟む感じだった。あんまり自分でしゃべらなきゃ!と気負うことなく、普通に雑談するんだというテンションでいけば相手もそれなりにしゃべってくれてやりやすかった。まあ、冠詞とかめちゃくちゃだったけど伝わればいいでしょうって感じで…。

特に男性から何か聞かれたときはほとんど一発で返事はできなかったが、「こういうこと?」って確認したりで一応それなりにスムーズに流れていったと思う。

 

まだ結果は出ていないけれども、試験官の反応は結構よかった(と信じている)ので受かった気がしている。

私はしばらくフランス人の先生にフランス語を習っていて、ほぼ毎週フランス人と話す機会があったのが最大の勝因だったと思う。たぶん、2級に関しては細かい文法とかよりも、コミュニケーションがそれなりに取れればよいのではないだろうか。

先生に習うのはやはりお金がかかるので全員ができるわけではない(特に仏検のためだけには)とは思うが、都会ならMeetupなどでランゲージエクスチェンジのイベントに試験前数回参加してみるのがおすすめ。あるいは、スカイプ授業の無料体験を受けてみるとか。笑

とか言って落ちてたら目もあてられないが、結果が分かったらまた記事書きまーす

Bonne nuit!

ゲッベルスと私と私

ゲッベルスと私 という映画を観た。

思ったことを書き留めておくべき映画だったので、ブログに残しておく。

 

鮮明な語りと立ち上る戦前戦中のドイツ

本映画の語り手はブルンヒルデ・ポムゼル御年103歳。合間合間に差し挟まれる当時の映像と、彼女の語りだけで映画は進行していく。この語りがすごい。当時付き合っていた恋人に誘われてナチの大会に行く様子、第一次大戦パイロットの伝記作成を手伝うようになった経緯、当時の彼女に起こったこととそこで感じたことが、きわめて具体的に描かれていく。ナチ党への入党手続きが終わるのを待つエヴァの姿が、目の前に浮かんでくるようだった。あの時代に体制側ど真ん中で生きた一般人の肉声を、これだけじっくり聞ける機会はなかなかない。

 

退屈な前半とショッキングな後半

映画は淡々と、彼女がまだナチとなんの関わりもなかった頃から敗戦までを一定のペースで進んでいく。だから、前半はわりとのんびりした話が多い。時折ピリッとしたものが混じるのは我々がその後の歴史を知っているからで、じわじわとユダヤ人の雇い主や友人の可動域が少しずつ狭まっているのが分かる。民衆がナチに取り込まれていくのも、イデオロギーありきではなく生活にひょっこり顔を出すようなものであったことが描かれる。

後半は皆さまご存じの通り、という以上の、ショッキングの極みのような映像が続けて出てくる。やせ細った大量の遺体がモノとして扱われるサマは、そしてそれがユダヤ人によって(ダビデの星の腕章で分かる)「処理」されていくサマは、人間社会の敗北である。この事態を前にして科学だの文化だのになんの意味があるというのだろうか。人間っていったいなんなのだろう。あるがままにあればそれでいいのだろうか…。私個人としてはそんなあり方は断固として拒否するが、とはいえシリアの惨状をしり目にのほほんと生きていたわけではあって、本質的には実はあまり変わらないのだろうか。

 

○「知らなかった」の欺瞞―真に学ぶべきは退屈な前半

彼女は言う。「私は知らなかった」「抵抗することなんてできなかった」「私に罪はない」。でも、本当になにも「知らなかった」のなら、抵抗することが「できなかった」という言い方にはならないだろう。本当に一切なにも知らなかったのなら、抵抗なんて「思いつきもしなかった」というニュアンスになるだろう。そう、正確には、「人を焼いているなんて」知らなかったと言うのだ。たしかに、人を焼くとまでは思いつかないだろう。それは分かる。でも、ユダヤ人が劣等人種として迫害を受け排斥されていったことは、当時のドイツにいた人なら誰でも知っていたはずなのだ。現代日本において在日朝鮮人への差別がないという人は、単に見たものが頭の中で咀嚼されていないに過ぎない。ましてやナチは政府をあげて広報していたのだから、いわんやをや。

そう、私たちは、映画の中では比較的のんびりしていたと読めるような、ナチ的価値観がじわじわと侵食してくる段階で、断固としてNOを突き付けなければならないのだ。本当に人を殺し始めてからは、間違いなく自分も殺されることが火を見るよりも明らかなので、そこに至ってなお命をかけて抵抗できる人は多くないだろう。

「私にはユダヤ人の友人もいる、私は差別はしない」ではいけないのだ。まわりに在る差別を黙認するとき、それはほとんど積極的に加担することに等しい。

 

○私たちがしなければならないこと

とはいえ、私も、嫌韓で笑いを取ろうとするような人がいたとき、せめて笑わないようにすることくらいしかできなかった。でも、それではだめだという意識を強くもつこと、きちんとその場で否定することこそが決定的に重要なのだと思う。一人一人がそういう意識を持って生身の人間に向き合っていかないと、差別的な空気はじわじわ広がっていってしまう。

そして本当に危ないのが、先般の自民党杉田議員の発言である。散々言及されているので概要はぐぐっていただくとして、あのような言説をなんとなく許してしまうことこそ、この映画が警鐘を鳴らすあの世界への入口であり、ターニングポイントなのである。あれを、でも私たちに実害があるわけではないしと放っておくと、暗黒世界は案外すぐにやってくる。歴史は繰り返すのだ。実害が出る頃にはもう遅いと、過去はせっかく教えてくれているのに。

 

社会は複雑で大きくて捉えどころがない。でも、結局構成しているのは一人一人の人間であり、今まで社会が変わってきたのも、その一人一人が少しずつ声をあげてきたからなのだ。決して諦めてはいけないし、私たちが成し遂げられることはきっとあると信じていたい。

失言の構造

ある議員の講演会のあと、こんなことを言った人がいた。

政治家ってよく失言するけど、その構造がよく分かったよね。笑いを取ろうとすると、ちょっと際どいことを言わないといけないんだ

 

正直に言おう。私は思った。

馬鹿と言われたいか、阿保と言われたいか、それくらいの選択の余地はあげてもよい、と。

 

確かに、笑いを取ろうとしていることはよく分かった。そして、笑いを取るためには多少ぶっちゃける必要はある。それは分かる。でも、ぶっちゃける方法はいろいろある。

 

その講演会の話者は女性だった。「ぶっちゃける」ネタはほとんど自分のことだった。過去の経歴や自分の立場を中心に笑いをはさんでいて、それは素直に笑えることだったが、ひとつだけ「おばちゃん」と自虐していたのは悲しかった。そんなことをしなくてもその人の話は十分におもしろかった。

 

対して、問題になりニュースになる「失言」は、被災地が東北でよかっただのなんであんな黒いのが好きなのだの、他人を踏みにじるものである。次元が違いすぎる。加えて、女性記者は男につかなければいいとか子どもを三人は産めとか、女性蔑視も目立つ。とにかく他人を馬鹿にすれば笑いを取れると思っているのである。

 

あくまで自分を落とす人の話を聞いて、他人を落とす失言の「構造が分かった」と言ってしまう愚かしさは筆舌に尽くしがたい。構造が失言させているのではなく、元々の人権感覚の低さや人間性のなさが「笑い」という場面で表出しているだけなのである。まあ、笑いに限らずいつでも溢れだしているが…。

 

この国の人たちが人権感覚に著しく欠けていることは前から知っているし別に驚きはしないが、日々失望ゲージはたまっていくばかりである。しんどみ。

人脈または金脈 そして、それに代わるべきもの

人生をぬるっと切り抜けていくためには、人脈または金脈が要ると思う。

たとえばパリに行きたいとして、もちろんお金があれば飛行機のチケットもどんなホテルも取れるわけである。一方で、旅行会社に知人がいればなにか安いツアーを融通してくれるかもしれないし、パリで泊めてくれる人がいればホテル代よりは安く済むことが多いだろう。

不審者につきまとわれたとき、お金があれば引っ越したりセコムを入れたりすることができる。しばらく家に泊めてくれたり、一緒に帰ってくれたりする友人がいても、何もできないよりはずいぶん安心するし効果があるだろう。

 

両方あれば鬼に金棒、どちらか片方だけでもあなたの人生はだいぶイージーモードになることであろう。

 

そう、問題は、どちらもない場合だ。そして、そんなことはありふれている。一度得たと思っても、ふとした拍子に失われることもある。

 

そこで登場するのが社会保障である。働けない人でも、人とコミュニケーションをとるのが苦手な人でも、どんな人でも健康で文化的な最低限の生活を送る権利がある。それを保障するのが社会保障であり、役所の第一義的な仕事だ。

 

そして、難しくはあるけれど、役所の社会保障としてもやはりお金とともに「人脈」を繋ぐような仕組みを作っていく必要があるのだと思う。

それは必ずしも友達と呼べるものでなくてもいい。でも、最低限、困ったときに相談できる場所を2つは繋いでおけるとよいと個人的には思う。

飽きてきたので詳しくはいつかの後日に譲るが、いわゆるサードプレイスというものが本当に必要だと思うし、サードプレイスがサードプレイスたる所以は、ゆるっとした心地よい繋がりを得られると同時になにか苦痛があればすぐに逃げられるところにあると考えている。だから、地域コミュニティを構築するには、意識して逃げ場を確保しておく必要がある。嫌になったらすぐ引っ越しなんて、多くの人にはできないでしょう。

 

とっちらかってしまったがとりあえずこれで。

「反日」の氾濫

ここ数年だろうか、「反日」という言葉を本当によく目にするようになったのは。私はこの事態を本当に憂慮している。どこがどう問題なのか、一度文章にしておきたい。

 

  •  少し前までの「反日

以前、「反日」という言葉が使われていたのは、外国での日本製品不買運動や、日本語放映禁止等に対してであったと記憶している。これは正しい「反日」の使い方であると思う。正直私も日本系商店のガラスを割るなどの暴動はやめてほしいものだと思っていた。

 

これに対して近年では、日本内部の個人や集団に対してこの言葉がなげかけられている。中韓にルーツを持つ人や、現政権を批判する人を指していうことが多いらしい。反するもなにも、その人たちは「日本」そのものではないか。日本に住む人に対して「反日」などと言うことがどれだけ愚かで恐ろしいことなのか、そんなことも分からない人が少なからずいるらしいことに尋常ならぬ恐怖を感じる。

 

  • 「日本」とはなにか

そういう人たちにとって、それに「反」しているという「日本」とはなんなのだろうか?当然、日本に住んでいる人の集合体でも、日本国籍を持っている人の集合体でもないのだろう。彼らが支持するものは大きくふたつ、「現政権」と「中韓ヘイト」であるように思う。彼らにとって「日本」とはそのふたつを翼賛するものであり、そこに共通するのは、強気におもねり弱きを踏みつける精神性である。

しかし、当然ながら、「日本」はそのような者たちだけで成り立っているわけではない。外国にルーツを持つ人も、現政権に批判的な人もたくさんいて、その人たちも働き消費しこの社会を回している。少子高齢化の今日、という枕詞がつけられがちではあるが、多子若年化であっても、どんな境遇の人もその力を生かせる社会のほうが発展し生きやすいことは疑いがない。なのに、一部だけを「日本」と認定し残りを敵視するような態度は、誰も安心して暮らすことのできない世界を作り出すのみである。あ、もちろん、誰かの人権を侵害するような差別行為やヘイトスピーチはそれ自体論外ですよ。

どんな共同体でも、多様性を排除し異論を認めなくなってしまっては、向かうところ闇のみなのである。それに加えて、今の日本は現実としてお仲間で集まっていては衰退あるのみなのであって、実際着々と衰退している。

 

少し前、軽度障害者に対して障害基礎年金の打ち切りを検討するというニュースが流れた。ヤフーのリアルタイム検索でしばらく流れるツイートを眺めていたのだが、「それより先に外国人生活保護をやめろ」というような内容が時々あって、心が暗くなった。なぜ弱い者への抑圧を、さらに弱い者への抑圧によって対応しようとするのだろうか。奇しくも彼らは真理を言い当てているのであって、「それより先に」外国人生活保護が廃止されたとすれば、「次」に廃止の槍玉にあがるだけである。一度弱い者は切り捨てられるべきという規範が確立すれば、あとは順番を待つのみだ。弱い者どうしつぶし合うなんて愚かなことをしないで、明らかに失敗しているクールジャパン関連経費なり、国が本気になれば削れる予算などたくさんある。

 

  • 多様性の確保こそが日本の生き残る道

日本社会を構成しているものは実に多様であるのに、その内部を単純な敵味方で分けて分断するなど、現実を無視した誤った運営策だ。様々な問題を解決し、なるべく多くの人の力を生かせるようにするには、たとえ面倒でも地味に対話を重ねてゆくしかない。決着がつかないことは、権力差で強い者が言うことをきかせるのではなく、司法の場などで正義や論理によって解決されるべきだ。もちろん実際としていつもうまくいくなんてことはあり得ないけれど、最初から諦めていては始まらない。

幻想の「日本」を支持したいがための「反日」の氾濫はすなわち対話の拒否、分断の進行であり、確実に現実の日本社会を蝕む病理である。今の日本はかなり危ういところまできているということを、自覚せねばならない。