Parce que c'est comme ça

欧州大学院生。最終目標はバカンスのある人生。パスクセコムサ。

インクレディブル・ファミリーが問いかけるもの

先日、インクレディブル・ファミリーを観た。前作ミスター・インクレディブルがずいぶん面白かった記憶があり、とにかく楽しい映画を観るという心づもりでスクリーンの前に座った。ところがどっこい、面白いことはじゅうぶんに面白かったのだが、頭を空っぽにして楽しめる系の映画ではなく、思いのほか今の自分にクリーンヒットしたのだった。

ーーー以下、ネタバレしまくりますーーー

 

○女性が活躍する物語がもたらす解放感

今回は、イラスティガール(ヘレン)が外でバリバリ仕事をこなす。超かっけえ。ミスター・インクレディブル(ボブ)は家で家事とお留守番である。

このあたりの流れが少し説教臭いなと、最初は思っていた。ヘレンは最初に外での仕事を持ちかけられたとき、自分が家のことをしないで誰がするのだと、断ろうとする。しかし、ボブは、最終的にはヘレンを後押しするのだ。絵に描いたような「女性活躍」の流れだと思った。

余談だが最初に「ミスター・インクレディブルではなくイラスティガールにこの仕事をやってもらいたい」と言われたときの彼の反応が、ものすごくリアル。目立つかっこいい仕事は妻ではなく自分がやりたい…「分かるだろ!?」←コレ。超分かるよ。(無意識的にしろ)見下している女性に自分と同じかそれ以上の能力が求められる仕事なんて(そもそもできるとも思われないけど)やってほしくない、でもさすがにそこまではっきり言うと差別的なのは分かってはいる、だから察してくれよ!って感じ。分かる分かる。超見覚えある。そういう奴いっぱいいるよな。

閑話休題

なので、最初は教科書通りみたいな展開にちょっと嘘臭さを覚える。でも、依頼者が断固として「いや、今回はイラスティガールで」と言い切り、いざイラスティガールがバリバリ活躍しだすと、これがもう爽快。まあそもそもの設定に「男は力仕事」「女は柔らかく包み込む」みたいなジェンダー感が見え隠れすることの不満がないわけではないが、それくらいは許せる程度には彼女が有能。とにかくかっこいい。

ここで、「女は男より劣っていて当然」「三歩下がって後ろに付き従うべき」という社会の価値観に少なからず抑圧されている自分に気付くのである。「解放感」としか言いようのないものが脳にじんわり広がっていく。昔、あるテストでダントツ1位の成績を取ったことがあったのだが、そのとき「男のほうが頭がいいなんて嘘だ」とはっきり思えた気持ちよさを思い出す。

一方でボブも決して悪い奴ではないのである。社会全体の男尊女卑的な規範になんとなく染まってしまっていただけで、本当は悔しくてもヘレンを応援することもできるし、家事や子育てを頑張ろうとする。特に家事の苦労をエドナに愚痴る場面で、「単3の電池がなくて苦労して買い物に行ったのに、間違えて単4電池を購入してしまい、結局家にあるのは使えない単4だけ」というのはもう分かりすぎて微笑ましくなってしまった。いやほんとあれ徒労感すごいし自分の無能さにがっかりするよね。

今までヘレンがやっていて「誰にでもできる簡単なこと」と侮っていたケアワークの難しさを知り、成長していく姿は思いのほか感動的だった。いやまあね、もちろんそもそも侮るなよ、想像力を働かせなよ、という話ではある。しかしながら、社会に染みついてしまっている価値観に抗うのは普通の人には難しい話で、自分が向き合わなければならなくなったときに、ヘレンに八つ当たりすることもなくちゃんと壁を超えていくボブのことは許してあげてもいいと思う(何様)。向き合いすらしない人、いっぱいいるからね。

(バイオレットがいい子すぎた。父親にあんな仕打ちされたらしばらく口もききたくないぜ。)

 

○「悪法も法」か「悪法は法にあらず≒守らなくてもよい」か

これも最初から登場するテーマである。そのままセリフで言っちゃうので若干説教臭いというか説明過多なのだが、さっきと同じでまあその辺許せる程度には面白いからよいとする。

ヒーロー活動は法律で禁止されている。禁止されているのは不当だ、というところまではボブとヘレンの意見は一致するのだが、そこから「でも法は法だから守らなくてはいけない、正当な手順で変えるしかない」派のヘレンと、「法とはいえ明らかに不当なのだから守る必要はない」派のボブが対立する。

映画の中では結果オーライじゃん?みたいな感じでなんとなく流されたように感じたが、自分で考えろということなのかとも思った。

私は、こと憲法が保障する人権を侵害するようなものについては、法とて守る必要はないと考える。というか憲法に抵触するような[概念としての]法は存在しえないのだから、たとえ一般的な解釈からは逸れるとしても、憲法に整合するように行動することはなんら責められるべきものではない。旧優生保護法尊属殺人罪など、ひどい法規定は[実際としては]存在しうるのである。

憲法に抵触まではしないけれど不当なものについては、王道としてはそれを破る前に世論や国会、裁判所に訴えることだろう。でも、ケースによってはそんな悠長なことを言ってられない事情があるのかもしれないなとも思う。

もちろんいずれにしろ最終的に判断するのは裁判所だし法を変えられるのは国会だけだけれども、裁判官や国会議員でなくとも誰でも議論は提起できるし、そうすべきだと思う。

では実際にインクレディブルシリーズにおける、「スーパーヒーロー活動禁止」規定は憲法に抵触するのだろうか。当然ではあるがあの世界の憲法は分からないので、日本国憲法を念頭に置いて考えてみる。

…考えてみようと思ったけれど、考慮しなければならないことが多すぎる&結構緻密な論理が必要そうで大変だったので諦める。結論だけ言うと、活動禁止そのものが直ちに憲法に抵触するとまでは言い難いが、 国民の権利に規制をかける類のものであることは間違いなく、法としての目的を達成する合理的かつ抑制的な手段であるかという点においてはかなり疑いがある。よって、権利を回復する過程で多少現行法を破るのはまあいいんじゃないか(雑)という感じである。

 

○人が皆それぞれの力を発揮すること

ちょっと話がそれてしまったが、今回この映画が最も訴えかけたかったのはここなのだろうと思う。人はみなそれぞれに力を持っており、その力をみなが生かすことが個人の幸せにも、社会の発展にもつながるということだ。

今回の悪役「スクリーン・スレイバー」はこう言う。「スーパーヒーローがいると、人々は頼り切って自分ではなにもしなくなってしまう。危機的状況でも、スーパーヒーローがなんとかしてくれると、現実と向き合おうとしない。」

これはその人物の過去の体験から来ている言葉だが、あながち間違っていないわけだ。

でも、である。一般人にはお前自身の力で向き合え!と片方の口で言いながら、一方でスーパーヒーローには一般人のためにお前の力を押し殺せ!というのは公平を欠く。スーパーヒーローとて人間だ。それに、社会全体の効用を考えてみるとやはりコスパが悪い。もう少し私たちの社会に引き寄せて考えても、超能力を持っている人はいないにしても優れている人はやはりいる。ジョブスに、一般人にはついていけないからスマホを発明しないでくださいと言うのだろうか?それはやっぱりありえないだろう。

つまり!どんな人でも、その力を目いっぱい生かせるのが一番いい。それに、スーパーヒーローだけいればいいというものでもない。車椅子が移動できる道は誰にとっても通りやすいように、なるべく多様な考え方や背景を持つ人たちの力が交わるのが理想なのだ。

 

女性だから、子どもだから、障害があるから、法律でできないことになっているから、いろんな理由でその本来の力を発揮できていない人が、我々の社会にはたくさんいる。少しずつでも、活躍の場を作っていきたいものだ。そういうことを、この映画は訴えているのではないだろうか。