Parce que c'est comme ça

欧州大学院生。最終目標はバカンスのある人生。パスクセコムサ。

障害者雇用は健常者並みに働ける障害者を探すものではない

中央官庁障害者雇用率水増し問題がニュースになっているが、あなたはどうお考えだろうか。

私は論外だと思う。しかしながら、日本社会に蔓延する「そういうもの」病にかかっている人たちはやはりこの件についても「そういうもの」「障害者雇用なんて所詮きれいごと」と仰っているらしい。

常々(特に国家)公務員というものは面倒な声の大きさだけで物事を判断する嫌いがあると思っているが、今回も大きなニュースになった面倒なことになった仕方ないから会議とかするか感がプンプンである。自分できちんとなにがどう問題なのか表現できる人がいない。果ては「どうでもいい」とまで言い出す始末。世も末である。

まあ公務員批判は今回の本筋ではないので置いておいて、私が今障害者雇用について考えていることを整理しておく。

 

○そもそも、なぜ障害者を雇用しなければならないのか

現在、国は民間企業も含め一定以上の障害者を雇用しなければならないと定めている。その率に達しない企業はお金を払わなければならない。これは私の感覚では結構強めの規制である(○○してはいけないという規制はたくさんあるが、○○しなければならないという規制は安全衛生面以外あまり想像できない)。なぜそこまでして雇用率を定めているのか。当時の厚労省の議論を追ったわけではないので、ここからは自論である。

 

1.障害者とて人である

一義的には障害者の人権保障、社会参画機会の保障であろう。働けなければ、よほど実家がお金持ちでもない限り、全生活を障害年金などの社会保障に頼らざるをえない。もちろん障害年金生活保護自体は不可欠な制度だし積極的に使用しなければならないと思うが、一生涯それに頼らざるをえないとなると肩身の狭いことこの上ないのではないだろうか。自分で稼いだお金というものの自由さに陶酔した経験を持つのは私だけではないはずだ。金額的にも余裕があるとは言い難いだろう。

また、自己実現や社会貢献の文脈において労働が果たしている役割は少なくない。

もちろん別に働きたくないよという人も中にはいるだろうが、働きたい人がいるときに、あなたは障害を持っているから働けませんというのはあまりにその人に強いる犠牲が大きいと思う。障害の社会モデルという言葉もずいぶん浸透したが、働けないのは社会が働ける環境になっていないからだ。障害のあるなしを分けるものは努力でも日頃の行いでも人間性でもない、ただの偶然なのに、障害者は働けなくてもしょうがない(働ける環境を作る努力をする気もない)というのはあまりに酷ではなかろうか。

 

2.多様な人の力を活かすことの価値

人はみなそれぞれの価値観や視点を持っているものであるが、当然似たような特性を持つ人は似たような考えを持ちがちである。でも、ものごとはなるべく多様な視点から見たほうがよいものである。左利き用のはさみはきっと左利きの人が困っている声が届かなければ作られなかっただろうし、女性がフルタイムで働きだしたことがすべての人の働き方を見直すことにつながっている。当たり前だがこの社会には成人健常男性だけが生きているわけではないのだし、より弱い人に優しい社会というのは、相対的に強者となる人にとっても生きやすい社会でもあるのだ。

 

3.人はいつなにがあるか分からない

これは実はあんまり言いたくはない(1と2で必要条件は満たしているしそれで理解できるくらいの想像力は持ち合わせていていただきたい)のだが、一番分かりやすく多くの人に響くので一応書いておく。今健常者として暮らしている人だって明日交通事故に遭うかもしれなければ脳卒中で倒れるかもしれない、そしたらもう働けなくなるって、それ困りません?そうならない社会を作っておいたほうがよくないですか?はい、以上。

 

障害者雇用のあり方ー障害者雇用は健常者並みに働ける障害者を探すものではない

と、以上は総論、理想論である。それは分かっても実際はやってもらえる仕事もあんまりないし難しいよ、ということはひっじょーによく聞く。それ自体は分からんでもないが、総論賛成各論全部反対というのは一番卑怯な態度であって、総論賛成というならばそれを成しうる各論を探さねばならない。

そもそも、健常者用に作られた仕事の枠ありきで考えているから難しいのである。まず、健常者の定員1の仕事を障害者の定員1で取って替われるという考えは捨てなければならない。1:2にすればよいというものでもない。できることが違うのだから、役割分担をするのは当たり前である。

それは分かっているよと、だからやってもらえそうな仕事があるか考えるよというのも、実際に雇用する人を想定してやっているのでなければ無意味である。障害は人によって千差万別であり、一般的な類型を念頭においてたとえば視覚障害の人にはこの仕事、などとやるのは机上の空論であり時間の無駄なのだ。

であるから、最初のうちは、上の1と2がちゃんと分かっている人をそんなに忙しくない部署に置いて、その人の下に直接対象者を配置するというのがよいと私は思う。どういう仕事をやってもらったらいいかは手探りであり、最初はすごく難しいことをお願いしたり逆にやるべきことが見つからない期間があるかもしれないけれども、その都度話し合いながら一緒にやっていきたいことを伝え、少しずつその人に合ったパターンを見つけていくのである。一度類型ができてしまえば、我々は「そういうもの」を受け入れるのは得意であるから、なんとなくまわっていくだろう。

勤務時間中ずっとパソコンをかたかた言わせている人にしてみればあいつぼーっとしてんのに余計に給料もらってるということになる事態もあるかもしれないが、そもそもできることが違うこと、障害者雇用の社会的意義に照らしてみればそんくらいは許容すべき範囲であることを分からせねばならない。

 

それにしても1と2が分かってる人の悲劇的な少なさよ。ジーザス。