Parce que c'est comme ça

欧州大学院生。最終目標はバカンスのある人生。パスクセコムサ。

特攻で死ねる日本人が人類の滅亡を防ぐためにはー「人間の建設」感想

えらく堅苦しいタイトルになってしまいましたが、「人間の建設」(小林秀雄岡潔、1965、新潮社)を読んで考えたことを書き連ねておきたいと思います。

 

「人間の建設」自体は、批評家・小林秀雄と数学者・岡潔が行った対談を書き起こしたものです。表向きの主題は次から次へと移ろいますが、全体として両者が(おそらく長年かけて言語化した)批評・数学という営みとはどういうものかについて述べ、そこに通底するものが「人間とはなにか」という問いに答えられるべきものでありそうだ…という内容だったと思います。より正確に言えば、人間を人間たらしめるものは「情緒」であるとはっきり述べられているわけですが、ただこの「情緒」がなにであるべきかというのを考え直さねばならない、と岡潔は言うわけです。「情緒」の中身まで分かっているわけではない(天才岡潔に「分かっていない」などとまあ、恐れ多いにもほどがありますが)。

 

つまり、人間が人間であるためには絶対に必要な要素はなにか、守るべきものはなんなのか、そういうことを考えなければならないということです。それなくしては、数学も批評も真に価値あるもの=「人類にとってプラス」にならないと言います。数学という、最もそのような価値判断から遠そうな分野でさえ、そこから独立した「知性」だけの世界として立っていることはできないそうです(「本然の感情の同感なしには数学でさえ存在し得ない」)。びっくりですね。

 

最初はこのあたりで止めて、「そうそう、私はその『人間を人間たらしめるものはなにか』についての示唆を得るための勉強をしたい、留学したらそういうことを学びたいんですよ~」っていういつもの自分語り記事を書くつもりだったんです。

 

でも後半になって、どうしてもこの本で述べられていることに注釈をつけておかねばならない、それなくしてこの本の感想を述べたり、一部を引用して何かを語ったりすることはできないという思いに駆られました。そういうわけで、今この文字だらけのエントリを書いています。

 

さてみなさん、こちらの文章を読んでどんな印象を受けられるでしょうか。

 

昔の国家主義軍国主義は、それ自体は、間違っていても教育としては自我を抑止していました。だから今の個人主義が間違っている。自己中心に考えるということを個人の尊厳だなどと教えないで、そこを直してほしい。まず日本人が小我*1は自分ではないと悟ってもらわないと。

 

(特攻について)善悪は別にして、ああいう死にかたは小我を自分だと思っていてはできないのです。だから小我が自分だと思わない状態に至れる民族だと思うのです。自分の肉体というものは人類全体の肉体であるべきである。理論ではなく、感情的にそう思えるようになるということが大事で、それが最もできる民族としては日本人だと思います。

 

どちらも岡の発言です。ねえ、ずいぶん「昭和臭」がするといいますか、こんなことを会社の上司にでも言われようものなら即刻異動願いを出したくなりませんか。この文章だけを見ると、個の抑圧や特攻賛美、民族主義(および選民思想)など世界を暗くしている諸要素の詰め合わせじゃないかとも言えそうです。

でも、この本一冊を通して読んで、整合的に解釈しようとするならば、岡の言いたいことは少し違うのではないかと思います。そう思いたい、という面もありますが。以下、ずらずら私の注釈をつけます。

 

○「自己中心に考える」ノットイコール「個人の尊厳」の意味

ここでいう「自己中心に考える」の対義語は、「国家/会社/学校など特定の集団中心に考える」ではないのです。つまり、「残業したくない、早く帰りたい」という考えが「残業してでも一つのミスもない仕事をしろ」という会社の方針に反していたとしても、それはここで責められるべき「自己中心」的な考え方とは違います。端折ってしまいましたが、ここで「自己中心」的な考え方をしているとされているのは「非行少年」です。すなわち、「自分だけが得をすればよい、他の人間の権利をいくら侵害しようが知ったことではない」という態度を容認することが「個人主義」「個人の尊厳」ではないということが言いたいわけですね。(私としては「非行少年」は教育の問題ではなく福祉の問題だと思うのですが、本筋から逸れるので置いておきます)

というわけで、「自己中心に考える」の対義語は「あまねく人類の福祉という観点から考える」です。「人類の福祉」とは前に出てきた「情緒『の中身』」でもあります。…そう、つまり肝心の「情緒の中身」がなんであるかが不明確なので岡もノットイコールでしか「個人の尊厳」を表現できていないわけですが…。先ほどの例でいうと、その残業が絶対に必要とはいえず、ただただ椅子にふんぞり返ったエラい人を満足させるためだけのものなら、そのとき多少重役の機嫌を損ねたとしても全体的&長期的な視点で見たときに早く帰るほうがよいのであれば、あまねく人類の福祉に適っているわけです*2

そして、全体的&長期的な視点と自分がしたいことを大事にすることは両立します。というか、両立させることがまさしく自己中心的ではない個人主義であるわけです。

ですから、文庫本の解説では「小我=我執にとらわれた自我」となっていますが、より分かりやすくいうなら「小我=我執『だけ』にとらわれた自我」ということだと思います。

 

○たしかに、小我が自分だと思わない状態でなければ特攻はできない

小我が究極的に目指すもの、それは生きることです。いや、なんかそれを小我って言われてしまうといやいやいやってなりますけど…。

特攻はその究極の欲望を捨てて「お国(天皇?)」のために死ににいくわけですから、精神的には我執の対極にいますよね。

 

○でも、特攻は断じて「人類にとってプラス」ではない

岡も「善悪は別にして」と言っているとおり、特攻は「人類の福祉」とは無限大数キロ離れたものであり、「悪」です。

「お国のため」といっても、物資不足で人間を弾に使うような国が、物資も人員も豊富な連合国に勝てるわけがないというのはちょっと頭を使えば分かることです。もちろん、その「ちょっと頭を使」う力を徹底して奪うことが国のやり方だったわけですから、現実としてはそんなことはできなかったとは思います。

「人類にとってプラス」であるというのは、つまるところ人間がより人間らしく、幸福に生きられることでしかないでしょう。もちろん「人間らしさとはなにか」は現時点では不明なわけですが、特攻機に乗り込む兵士に求められていたのは人間らしさなどでは断じてなく、操縦するものとして飛行機の一部になることでした。無人機のCPUと一緒です。

そう、少し考えれば分かるのにそれでも特攻に行ってしまった、それは、まさしく「理論」が抜け落ちていたからです。どんどん貧しくなっていく生活、増える空襲、帰らない家族、そういうものを(意識的に)無視して、垂れ流される大本営発表を信じようとするその態度こそが特攻の原因だと思います。繰り返しますが、事ここに至って個人にできることなど少なく、最も責められるべきは国(政府)であり、次いで無批判なメディアです。

また、特攻に行けば勝つとは思えなくても、上官に逆らうことができなかったとか、残された家族のことを考えると行かざるをえなかったとか、そういう人もたくさんいただろうと思います。岡・小林はどうもそういう人たちのことはあんまり考えていないようだけれども…。

ですから、小我が自分ではないという意識は、最初は感情的にではなく理論だてて身につけなければならないと私は考えます。「大義のためなら死ねる」という意識は立派だし、社会はそうした人たちのおかげで進歩してきたわけですが、その大義が本当に大義かを判断できる力がなくては、たちまち人類の福祉など考えない悪人に都合のいい駒になってしまいます。

ただ、理論だけでは「死ねる」という結論には至らないので、その意味でそこまでの意識をつけるためには感情的にならざるをえない、ということならそれは正しいと思います。でもそれって万人に要求できることでも、すべきことでもないよな…日本人だからってだけでそんなこと押し付けられちゃたまりません、岡センセイ。

 

○特攻で死ねる日本人が人類の滅亡を防ぐためには

はい、今までごちゃごちゃと書いてきましたが、岡の主張はシンプルにまとめるとこういうことです。「人類がみな自分の生存と利益だけを求める今の社会では、近いうちにつぶし合って滅ぶ。運よく滅びずにすんだら、「生存」ではない生きる意味、人間として目指すべきものや守るべきもの=情緒をまず考えて、すべての営みはそこに立脚してなされなければならない。情緒を持つには大義のために死ねる精神が必要であり、日本人はまさにその精神を持ち合わせた、人類を滅びの淵から救う民族である」

ちょっと待ってセンセイ、と私は思うわけです。大義のために死ねる人間は、人類の滅亡を早める存在でもあるんではないでしょうか。大日本帝国があのまま本当に一億総決戦だとかやってたら今日本は滅びてたかもしれないですよね。あと、欧米にもノブレス・オブリージュっていう概念あるよ!!

だからやっぱり、もう何度も立ち戻ってくるわけだけれど、「大義とはなにか」「人間が守るべき一線とはなにか」ということをまともに考えられる能力とセットでないと、「大義のために死ねる」精神は役に立たないどころか害悪なんです。

そして、残念ながら、概して日本人はその能力に欠けていると思う。過労死問題など、その象徴だと思います。「仕事のために死ぬ」って、仕事って命より大事なの?そんなわけない。ああ、もう、なんだかこの話をしているとどうしても末端の個人に責任があるような書き方になってしまうのだけど、絶対にそうではなくて、責任を負うのはあくまで上司であり企業であり社会であり政府です。そういう現状を変えていく必要がある。

だから、みんなで、「なにが正しいことなのか」「なにを大事にするべきなのか」を考えていかなくてはならないと思います。そんなに簡単に答えが出るものではないかもしれないけれど、「上の人が言っていたから」で済ませるのではなくて、老いも若きも一人一人が考えて、対等に話し合って、少しずつ積み上げていくこと。○○人という概念はこれからどんどん変わっていくだろうけれども、少なくともまだ「日本人」というと一定の傾向が見られる現代において、「日本人」が人類を救えるとしたら、そういうふうに変わっていかなければならないのだと思います。

 

了。

*1:我執にとらわれた自我

*2:私としては「絶対に必要な残業」は医療、災害対応などかなり限られた場面でしか発生しないと思います