Parce que c'est comme ça

欧州大学院生。最終目標はバカンスのある人生。パスクセコムサ。

「男」になるか「女」として二流の道を行くか(「女ぎらい」を読んだ)

こんばんは。やっと(というか無理やり)脱したと思っていたTOEFL地獄に再び舞い戻ってしまいました。でもこうなれば一発で100点取るしかないのである。がっでむ。

 

さて今日はかの上野千鶴子氏の「女ぎらい」を読了しました。相変わらずフェミニズムに偏る私の脳内積読消費。思ってたよりもフロイトとかラカンとか心理学の話がいっぱい出てきてちょっと圧倒されてしまいました。全くの専門外なのですよね…まあ、勉強は、いずれ。

 

なのでちょっと本の主題からは外れるかもですが、私の数年越しのモヤモヤをといてくれてスッキリした話をば。

 

私の元の職場はまあ社会的にはエリートと言われるところで、超絶男社会(部署によってはまじで女性が1/70とか)。最近やっと女性を増やし始めたところです。といってもようやっと3割にのせる程度。

学生のときからいろいろ説明会などに参加していて、人事の人とは本番の採用面接の前から顔見知りでした。いよいよ内定をもらえそうという段になり、私は衝撃を受けました。その人事担当者の口調がいきなり砕けたのです。端的に表していたのが、名前の呼び方。それまで「(名字)さん」だったのが「お前」に。

…パードゥン?

びっくりしてその場では何も言えませんでした。

そしてそのあとわりとすぐに衝撃その2が。なにかの拍子に別の職員とその話になり、「お前って言われてびっくりしました、アレはいかんでしょう」と言ったら、「女の子に『お前』はダメだよね~」と。

…パードゥン?(2回目)

そんときはいや男も女も関係ないだろ、と思っただけだったのですが、なんとなくモヤモヤが心に残り続けていました。

もう結構前のことなのでもちろんずっとそればっかり考えていたわけではありませんでしたが、「女ぎらい」の以下の記述にあたって思い出し、「ああ、そういうことだったのね!」とひじょうに納得しました。

 

よい成績がよい学校を、よい学校がよい社会的な達成を意味するのは男にとってだけだ。学歴と父親のコネで一流企業へ入社するところまでは行けた。だが、和恵を待っていたのは、女向けの二流のコースだった。

 

後輩を「お前」と呼ぶ垂直的な関係はホモソーシャルの特徴の一つだと思うんですが、人事は「お前」呼びによって私を「男化」することである意味男女同権を示そうとしたんでしょうね。「お前」もこの組織の一員となったからには、我らホモソーシャルの一員だと。「女」だけどそこへの参加資格をありがたく頂戴したわけです。

いやいや。そんなもんありがたくもなんともねえ、私はそんな資格はいりませんと表明すると、今度はすぐさま「女」認定、ホモソーシャルに加わらない「二流」の者と判定されたのです。(表面上)丁寧に扱うけどメインストリームには決して出ていかない「女向けの二流のコース」行きです*1

事実、その職場では結婚して子どもがいる女性職員はほぼ例外なく閑職、同じく既婚子持ちの男性職員は激務の部署、そして独身の女性職員は「あいつは『男』だから」と言われる始末。

 

まあさすがに2019年、変わりつつあるとは思いますが。依然、女性にとって地獄なのには変わりないです。

という思い出話でした。

*1:まあさすがにその先輩もそんな意地悪を言うつもりではなかったというのは分かりますよ。概念的な話です