Parce que c'est comme ça

欧州大学院生。最終目標はバカンスのある人生。パスクセコムサ。

風に舞いあがるビニールシート

この本を購入して読んだのはずいぶん前でした。それから何回も引っ越しをしたけれど、いつも「絶対に連れていく」リストに入っています。でも、最後に読んだのはこれも結構前でした。

今の会社を辞めて、とりあえずは留学したい、そのあとはどうしようかなー国連もアリかなーなんて考えていたところ、そういえば国連職員のお話だったな、と本棚の片隅に佇む背表紙を思い出したのでした。

 

僕はいろんな国の難民キャンプで、ビニールシートみたいに軽々と吹きとばされていくものたちを見てきたんだ。人の命も、尊厳も、ささやかな幸福も。 

 

誰かが手をさしのべて助けなければならない。(中略)それが、富める者ばかりがますます富んでいくこの世界のシステムに加担してる僕らの責任だって 

 

じゃあ、私たちのビニールシートは?(中略)私たち夫婦のささやかな幸せだって、吹けば飛ぶようなものなんじゃないの? 

 

仮に飛ばされたって日本にいるかぎり、君は必ず安全などこかに着地できるよ。(中略)生まれ育った家を焼かれて帰る場所を失うことも、目の前で家族を殺されることもない。好きなものを腹いっぱい食べて、温かいベッドで眠ることができる。それを、フィールドでは幸せと呼ぶんだ 

 

 

どちらかが正しくて、どちらかが間違っているというものではないのです。

エドにはエドなりの、里佳には里佳なりの正義や幸せがあって、この夫婦はそこですり合わせることができなかったというだけ。

 

私はエドの正義に似たものによって今の仕事を志し、そして里佳の幸せを目指して違う道を行こうとしています。だから、この二人のやり取りは私の心の中で起こっていたものと似ていました。

 

エドのように生きられる人はすごいと思います。自分のせいではない世界の歪みを、命をかけて少しでもならそうとしている。でも一方で、私はどちらかというと里佳寄りです。確かに、私たちは恵まれている。命の心配はしなくていい。でも、だからといって、東京医科大学ほかたくさんの医学部で「女だから」というだけで入試差別を受ける国で女性として生きることを、美味しいものはお腹いっぱい食べられるから「幸せ」と形容してしまっていいものなのでしょうか。私は嫌です。

 

最初は自分の身を多少削ってでもこの社会をよくしたいと思っていたけれども、なんだか酷いことがたくさんありすぎて、まずは私の幸せを追求したい、そう思いました。社会とか世界とか、そういうものに立ち向かうのはもう少しあとでもいいだろうと。

 

結局のところ、自分のキャパシティの範囲内でできることをやればいいし、それしかできないのだろうと思います。社会の善き成員でありたいという思いを持って、それぞれの行動を邪魔しない、できれば応援すること。せめて私はそうありたいと思います。

エドになりたかったけれど、今の私には無理だった。それはもうしょうがないので、私は私のペースで進んでいこうと思います。

 

ふつうに本の感想を書くつもりだったのに、結局自分語りになってしまいました。

次はTOEFLとかもうちょっと役に立ちそうなことを書ければいいなと思いつつ、また誰もなんの興味もないような記事になるかもしれません。悪しからず。